量子コンピューターの脅威にさらされているのはパスポートだけでなく、電子IDカードや運転免許証など身近なeIDカードも同様であることを示す象徴的な事例が登場しました。本記事では、Thalesの事例を起点に、eID・電子パスポート(eMRTD)双方に共通する量子コンピューターの脅威と、NIST・ANSSI・各国政府による標準化の動きを解説します。また、株式会社サイバーウェアにおける、ePassport PKI Solution等の実績を土台にした耐量子暗号(PQC)に関する調査・研究の取り組みについてもご紹介します。
1. 欧州初の高レベル認証を取得した耐量子スマートカードとは ― Thales「MultiApp 5.2 Premium PQC」
MultiApp 5.2 Premium PQCは、2025年10月にThalesが発表した欧州初とされる量子耐性スマートカードです。2025年9月、フランスのサイバーセキュリティ機関ANSSIによるCommon Criteria EAL6+認証を取得し、Thalesはこれを「量子耐性スマートカードとして世界初の高レベルCommon Criteria認証」と位置付けています。
- Thalesが開発し、CEA-Leti(フランスの技術研究機関)による評価を経てANSSIが認証した製品で、電子IDカード、健康保険証、運転免許証など市民のデジタルIDを扱う文書向けに設計されています
- Common Criteria(CC)フレームワークにおいてEAL 6+という高いレベルでANSSI(フランス国家サイバーセキュリティ機関)から認証を取得した、この種類としては初めての製品とされています
- NISTが標準化した格子ベースの署名アルゴリズム「ML-DSA-65」を統合しています
- 利用者から見た使い勝手は従来のカードと変わらず、内部の暗号技術のみが刷新される形です
こうした動きは、国際的な相互運用性の標準化がまだ途上にあるパスポートや決済カードよりも、国内向けの国民IDカードのような「クローズドループ」用途で先行しやすいという指摘もあります。ドイツでもBundesdruckerei、Giesecke+Devrient(G+D)、BSI、Infineonが古典暗号とPQCを組み合わせたハイブリッド型国民IDカードの実証実験を発表するなど、欧州各国で同様の動きが広がっています。
2. まず押さえておきたい用語
PQC関連の議論には専門用語が多く登場するため、以下に主要な用語をまとめます。読み進める中で分からない言葉が出てきたら、このセクションに戻ってご確認ください。
| 用語 | 定義 |
|---|---|
| PQC(耐量子暗号) | 量子コンピューターによる攻撃に対しても安全性を保てるよう設計された暗号方式の総称 |
| eMRTD | ICチップを内蔵した電子旅券(Electronic Machine Readable Travel Document) |
| パッシブ認証(PA) | チップ内データが発行国により署名され改ざんされていないことを検証する仕組み |
| PACE | Password Authenticated Connection Establishment。読み取り機とチップ間のセキュアな通信のためのセッション鍵確立プロトコル |
| ML-KEM(FIPS 203) | 共通鍵を安全に確立するための耐量子暗号方式(耐量子鍵カプセル化)。CRYSTALS-Kyberがベース |
| ML-DSA(FIPS 204) | デジタル署名のための耐量子署名方式。CRYSTALS-Dilithiumがベース |
| SLH-DSA(FIPS 205) | ハッシュ関数の安全性を基盤とする耐量子署名方式。SPHINCS+がベース |
| EAL(評価保証レベル) | Common Criteriaにおけるセキュリティ評価の水準を示す指標 |
| ANSSI | フランスの国家サイバーセキュリティ機関。スマートカード等のセキュリティ認証を実施 |
| HNDL(Harvest Now, Decrypt Later) | 現時点で暗号化データを収集しておき、将来量子コンピューターが実用化された時点で復号する攻撃手法 |
| Crypto Inventory(暗号資産棚卸し) | 自組織のシステム内で、どこにどのような暗号アルゴリズム・鍵・証明書が使われているかを洗い出し、一覧化する取り組み。PQC移行の優先順位付けの前提となる |
| Crypto Agility(暗号アジリティ) | 将来アルゴリズムが変更・非推奨になった場合でも、システムを止めずに暗号方式を切り替えられる設計上の性質 |
3. なぜ今、耐量子スマートカードが必要なのか ― eID・電子パスポートの脅威
現在、政府発行の身分証明書やパスポートは、RSAや楕円曲線暗号(ECC)といった公開鍵暗号方式によって、データの改ざん防止やなりすまし防止を実現しています。しかし、十分な性能を持つ量子コンピューターが登場すると、ショアのアルゴリズムによって効率的に解かれてしまう可能性があります。
- 量子コンピューターは現時点では研究段階ですが、2030年代初頭にかけてより実用段階に近づくと見込まれています
- eIDカードも電子パスポート(eMRTD)も、発行から有効期限まで10年前後の長いライフサイクルを持つため、「今発行する文書が将来の量子攻撃にどう耐えるか」を見据えた設計が求められます
共通する暗号の仕組みと影響度
eIDカードと電子パスポートは、どちらも公開鍵基盤(PKI)による署名検証を土台にしており、量子コンピューターの脅威は共通しています。電子パスポートの暗号メカニズムのうち、影響が最も深刻なのはパッシブ認証(PA)です。
- パッシブ認証(PA)
チップ内のデータ(顔写真や指紋などのデータグループ)が発行国によって正しく署名され、改ざんされていないことを確認する仕組み。この署名に使われるPKIが破られると、偽の電子身分情報が偽造されてしまうおそれがあり、影響は特に大きいとされています。 - アクセス制御(PACE)
読み取り機とチップ間の通信を暗号化するためのセッション鍵確立にDH/ECDHが使われており、理論上は量子攻撃に対して脆弱です。記録された通信が将来復号される恐れはあるものの、偽造に直結するパッシブ認証と比べると影響は限定的と考えられています。
具体的に想定されるリスクとしては、以下が挙げられます。
- 政府の署名鍵が破られ、有効に見える偽の電子市民プロファイルが偽造される
- 身分証明書の認証鍵が破られ、指紋画像や顔写真などの機密データに不正アクセスされる
- 秘密鍵が破られ、正規ユーザーになりすまして署名や政府サービスへの不正アクセスが行われる
「Harvest Now, Decrypt Later (HNDL)」への対策
この脅威をさらに切実にしているのが、「Harvest Now, Decrypt Later(HNDL)」という攻撃モデルです。これは、既存の公開鍵暗号を実用的に解読できる量子コンピューターがまだ存在しない現時点であっても、暗号化された通信データを収集・保存しておき、将来量子コンピューターが実用化された時点でまとめて復号するという考え方です。長期間にわたって有効性を持つ情報ほど、HNDLの標的になりやすいとされています
HNDLへの対応として、まず着手すべきなのが「Crypto Inventory(暗号資産棚卸し)」です。
これは、自組織のシステムのどこで、どのような暗号アルゴリズム・鍵・証明書が使われているかを洗い出し、一覧化する作業を指します。米国防省のPQC移行戦略でも、すべての暗号技術を洗い出す「Baseline Inventory」を最初の取り組みの一つに位置づけており、必要に応じて自動化された暗号検出・棚卸しツール(ACDI)の活用も検討するとしています。何をPQCに置き換える必要があるかが分からなければ、優先順位をつけた移行計画も立てられないため、Crypto Inventoryは移行の「最初の一歩」として位置づけられています。
4. PQCの標準化と日米欧の移行動向
PQCの標準化は、米国NISTによるアルゴリズム標準化を軸に、各国の認証機関・政府機関・国際プロジェクトが具体的な実装・移行支援を進める段階にあります。
- NIST
2024年8月、量子コンピューターの脅威に対応する暗号方式として3つの最終標準(ML-KEM/FIPS 203、ML-DSA/FIPS 204、SLH-DSA/FIPS 205)を公表しました - ANSSI(フランス国家サイバーセキュリティ機関)
耐量子暗号を搭載したスマートカードに対して高水準のセキュリティ認証を実施しています(MultiApp 5.2 Premium PQCの認証など) - PQC4eMRTDプロジェクト
2025年2月に開始された、EUのDigital Europe Programmeの資金提供を受けた2年間の国際プロジェクトです。Infineon Technologies AGが統括し、Thales、CryptoNext Security、Barcelona Supercomputing Center、スロベニアの比較法研究所が参加し、既存のPQC研究成果を国際的な標準化作業部会に反映させることを目的としています
政府機関レベルで進む具体的な移行期限の設定
「例えば、米国防省(Department of War)は2026年4月付でPQC移行戦略を策定し、同年6月に公表しました。2030年末までに全システムをPQC対応とし、2031年末までにPQCの利用を必須とする方針を示しています。また、同戦略では脅威として、HNDL攻撃や、PKIベースの認証が破られることによるなりすましリスクが挙げられており、これは前章で解説したeID・電子パスポートのパッシブ認証のリスクと同じ構造です。
欧州では、EU加盟国と欧州委員会が2025年6月にPQC移行に向けた協調的なロードマップを公表しました。2026年末までに各国が国家ロードマップを策定して初期の取り組みを始め、2030年末までに高リスク用途、2035年末までに中リスク用途の移行を完了する(低リスク用途は可能な範囲で)ことが示されています。
国内でも、政府がPQCへの移行を具体化しています。内閣官房の関係府省庁連絡会議は2025年11月に中間とりまとめを公表し、政府機関等について原則として2035年を目途にPQCへの移行を進める方針を示しました。具体的な移行ロードマップについても、2026年度に策定する予定とされています。また、PQCへの移行は政府機関に限らず、重要インフラ事業者や民間事業者にとっても考慮すべき課題とされており、必要な対応について検討が進められています。
MultiApp 5.2 Premium PQCが採用するML-DSAは、NISTがFIPS 204として標準化した耐量子デジタル署名アルゴリズムです。IETFでは2025年10月に、ML-DSAをX.509証明書やCRLで利用するためのRFC 9881が公開されています。また、ML-DSAの署名をゼロ知識証明と組み合わせる研究・実装も進められています。
5. 現行暗号とPQCアルゴリズムの比較
PQCへの移行では、用途ごとに異なるアルゴリズムが割り当てられており、既存のRSA/ECCからの置き換え先が明確に整理されています。
| 標準名 | FIPS番号 | 用途 | 置き換え対応(現行方式) | もととなったアルゴリズム |
|---|---|---|---|---|
| ML-KEM | FIPS 203 | 耐量子鍵カプセル化(鍵交換) | RSA鍵交換、ECDH | CRYSTALS-Kyber |
| ML-DSA | FIPS 204 | デジタル署名 | RSA署名、ECDSA | CRYSTALS-Dilithium |
| SLH-DSA | FIPS 205 | デジタル署名(ハッシュベース、バックアップ用途) | RSA署名、ECDSA | SPHINCS+ |
ML-DSAは格子問題の困難性に安全性の根拠を置く方式で、SLH-DSAと比べて署名サイズが小さく、ICパスポートやスマートカードのような容量・処理能力の限られたハードウェアへの実装に適しているとされています。一方、SLH-DSAはハッシュ関数の性質にのみ安全性を依存する保守的な方式ですが、署名サイズが大きく、身分証明書用途にはあまり適さないと指摘されています。
6. サイバーウェアのeID・電子パスポートの実績とPQCへの取り組み
サイバーウェアは、eID・電子パスポート関連の既存実績を土台としつつ、PQCの移行に向けた対応を現在進めています。
- ePassport PKI Solution
ICAO要求仕様に準拠したPKIコンポーネントの提供実績があります。パッシブ認証の根幹をなすPKI基盤は、PQC移行における最重要領域であり、既存のPKI運用知見をもとに、PQC対応への調査・研究を進めています。PKI運用の中でどこにどの暗号アルゴリズム・鍵・証明書が使われているかを把握してきた経験は、Crypto Inventory(暗号資産棚卸し)的な観点にも通じるものです。 - 出入国eGate制御ミドルウェア
国際標準に準拠した出入国eGate運用コンポーネントの提供実績があります。パッシブ認証やチップ認証の検証ロジックを扱う領域であり、将来的なPQC対応アルゴリズムへの追従を見据えた技術調査を行っています。 - TSM/SEプロビジョニング
鍵情報やSecure Element(SE)への安全な配信・書き込みに関する実績があり、耐量子アルゴリズムへの鍵管理基盤の移行を見据えた研究にも応用可能な知見を有しています。 - TEE(Trusted Execution Environment)関連ソリューション
SEを補完する安全な実行環境を活用したソリューション提供の実績があり、モバイル端末上でのeID実装における耐量子対応の選択肢について調査を進めています。
Crypto Agility(暗号アジリティ)の重要性
PQCはNISTによる標準化が進んだとはいえ、実装方式や運用のベストプラクティスは今後も変化していく可能性があります。そのため、将来アルゴリズムが変わっても暗号方式を切り替えられる設計(Crypto Agility)を備えているかどうかが、長期的な安心材料として重視される傾向にあります。
サイバーウェアはPKI・出入国eGate・TSM/SEといった既存のeID関連実績を持つ立場として、Crypto Agilityを備えた次世代PKI・eID基盤という方向性を見据え、調査・研究を進めています。
7. よくある質問(FAQ)
Q1. 耐量子暗号(PQC)への移行はいつまでに完了する必要がありますか?
NISTは移行方針を示したNIST IR 8547(初期公開ドラフト)において、RSA-2048など112ビット相当の量子脆弱な暗号について2030年以降の非推奨化、2035年以降の使用禁止を提案しています。リスクの高いシステムほど、より早期の移行が求められます。なお、米国では2026年6月の大統領令により、連邦政府の重要システムについて、鍵確立は2030年末まで、デジタル署名は2031年末までの移行が求められています。
Q2. 今持っているパスポートやICカードはすぐに危険になるのですか?
現時点では、量子コンピューターによる実用的な暗号解読が可能な段階ではありません。ただし「Harvest Now, Decrypt Later(HNDL)」のように、暗号化されたデータを今のうちに収集し将来解読する攻撃モデルが想定されています。また、量子コンピューターの実用化後には、現在の暗号方式で生成されたデジタル署名が偽造される恐れもあります。そのため、有効期間の長い文書・データほど、早期からPQCへの移行を検討することが重要です。
Q3. 耐量子暗号に対応すると、カードの見た目や使い方は変わりますか?
MultiApp 5.2 Premium PQCの事例では、利用者から見た使い勝手は従来のカードと変わらず、内部の暗号技術のみが刷新される形とされています。
Q4. PQC移行における技術的な難しさは何ですか?
耐量子アルゴリズムは、従来のRSA/ECCと比べて署名サイズや鍵サイズが大きくなる傾向があり、ICカードチップのような容量・処理能力が限られたハードウェアにどう実装するかが大きな課題となっています。
Q5. PQCはまず何から始めるべきですか?
自組織のシステムのどこに、どのような暗号アルゴリズム・鍵・証明書が使われているかを洗い出す「Crypto Inventory(暗号資産棚卸し)」が最初の一歩とされています。何をPQCに置き換える必要があるかが分からなければ、優先順位をつけた移行計画も立てられないためです。
※参考文献・出典
- NIST, “Post-Quantum Cryptography”, CSRC(FIPS 203/204/205 標準文書)
- NIST, PQC関連刊行物一覧(IR 8547 移行タイムライン等を含む)
- ICAO, “Doc 9303 – Machine Readable Travel Documents”
- Secure Identity Alliance, “Preparing for Post-Quantum Cryptography in Identity Documents”
- Thales Group, “The importance of Post-Quantum Cryptography for eID documents”
- Thales Group, “Countdown to Q Day”(MultiApp 5.2 Premium PQCに関する記事)
- Department of War, “Post Quantum Cryptography Strategy”(2026年4月付、同年6月公開)
- 政府機関等における耐量子計算機暗号(PQC)利用に関する関係府省庁連絡会議, 中間とりまとめ(2025年11月20日)
- IETF, RFC 9881 “Internet X.509 Public Key Infrastructure — Algorithm Identifiers for the Module-Lattice-Based Digital Signature Algorithm (ML-DSA)”(2025年10月)
- 欧州委員会(NIS協力グループ), “A Coordinated Implementation Roadmap for the Transition to Post-Quantum Cryptography”